己を知る
 
                           花園大学学長
                           大珠院住職 盛 永 宗 興(もりなが そうこう)
大正十四年生まれ。旧制高等学校卒後、十五年間、大徳寺専門道場で修行。臨済宗大珠院住職。昭和六十一年花園大学学長に就任。一九九五年(平成七年)六月に逝去。
                           き き て 有 本  忠 雄
 
有本:  ご老師、今日はご老師の修行を中心にお話を進めて頂きたいと思うんですが。
 
盛永:  はい。それよりも先に、私は正座はあまり得意じゃないんですよ。大体禅宗の坊さんというのは、座を組んでおるのが本職ですから、だから私もそういうふうにしますから、あなたも楽になさって下さい。どうぞ。
 
有本:  はい。有り難うございます。
 
盛永:  これは、礼儀をぶち壊すという意味じゃなくて、ゆっくりお話が出来るようにお勧めするんです。何しろ小僧時分から、「文句を言わずに黙って坐れ」というて、怒られてやってきたんですから。そういう人間を掴まえて、「話せ」と言われても、なかなかうまい話はないんですが、ただ「修行」ということを私なりにどう感じているか、と言いますと、このお寺へ入れて貰ってから四十年間、私にとっての修行は、「馬鹿さ加減に気が付くこと」の連続だったんです。「馬鹿さ加減」というのは、他人様(ひとさま)―人間が馬鹿だ、という意味じゃなくって、「自分自身が随分間違った思い込みの中で暮らしてきたなあということ、それに気が付く」ことの連続だったんです。ですから師匠や或いは経典、祖録の中の立派な言葉に出遇った時、それを覚えるんではなくて、それが一つの刺激になって、自分の中で何かが砕けていく。思い込んでいるものが砕けてしまう。そういうことの連続だったような気がします。まあ言ってみれば、目のうろこが落ちる。耳の栓が抜ける。従って真実なものがありのままに見えてくる。ありのままに聞こえてくるというのは、馬鹿だったと気が付いたことの副産物でしてね。世間ではよく「馬鹿に付ける薬はない」というんですが、私は馬鹿だったと当人が気付きさえすれば、そのきっかけになるものは全部薬だと思うんです。ただ残念ながら、「良薬は口に苦(にが)し」と言いましてね、この馬鹿だと気が付くための薬もなかなか苦(にが)いんですな。いわゆる世間的な言い方をすれば、「苦労」とか、「不幸」とか、そういうものに出遇わないとなかなか気が付かない。私の前半生はそれだったような気がします。私は富山県の魚津(うおづ)というところで生まれたんですが、先祖代々百姓でして、爺さんの代までは百姓しておったんですね。それが親父が医学の勉強をして、町で開業医になりましたので、田圃はみんな小作に出すということになりました。従って小さいけれども地主で、医者の息子ということで生まれたんです。まあ大体馬鹿になる条件は揃っておったわけです。やって来る人たちはみんな門口(かどぐち)から頭を下げて来てくれる人ばかりですから、身のほども知らずに思い上がるということは、私の子どもの頃の恥ずかしい状態だったと思います。しかも悪いことに学校の勉強だけは少し出来たものですから、余計に思い上がりがあったんでしょう。私は、姉弟四人で、上に三人姉がおって、最後に待ち望まれて生まれた跡取り息子だったんです。高等学校へ入る時には、勝手に文化へ入って終いました。これなどは馬鹿の証拠でして、親父が苦労して作った病院の跡継ぎが居なくなったわけですから、随分ガッカリしただろうと思いますよ。その天罰が忽ち当たりましてね。私は大正の末年の生まれですから、ちょうど高等学校在学中が、戦争が日本にドンドン不利になっていくという時期でした。そしてご存じの学徒動員という、出陣という。それまでは大学を卒業するまで兵役が免除されるという法律が改正されて、文化の学生だけは行かなくちゃならんという状態になったんです。その上に追っかけるように、徴兵年齢が一年引き下げられる。ですからアッという間に、自分が軍隊へ入らなければならないということになったわけです。先ほど私にとって、「修行というのは、自分の馬鹿さ加減、思い違いを打ち破ることの連続だった」って、言いましたけれども、まずこの軍隊へ入って戦死するだろうということは、いきなり目の前に押し付けられた時、自分が如何に死というものについて無関心で生きてきたか、ということを痛切に感じさせられました。三年か四年、大学卒業するまでの期間が、まるで彼方の時間のように思って暮らしておったんですね。それがいきなり自分が戦死するという。向かいを見ても、隣を見ても、息子や主人が戦死したという広報が入っている時代ですから、これはもう嫌でも考えざるを得ません。兵隊検査を受けて一ヶ月後ですけれども、立て続けに私の両親が死ぬということも起こりました。これは母が身体が弱くて寝ておったんですが、父がその母の容体を診察しておりまして、もう今日はダメだという日に、それが引き金になったのか、父が脳溢血をやって、母が夕方に亡くなる、父がその明くる日の午前中に亡くなる、ということが起こったわけです。三人の姉は結婚して、一人は満州、一人は上海、一人は門司におりまして、国鉄の切符も買えない時期ですから、誰も戻って来れない。私一人で、親戚に手伝って貰って、二日間に渡って、葬式を出して、それから召集令状が来て軍隊に入る、と。こういうような経験をしたんですけれども、自分が死ぬということも、親が死ぬということも考えてみていなかったんですよ。何となく無限にこの状態が続くように思って暮らしておったんですね。更には軍隊へ入る。自分が戦死するかも知れない。そういう恐怖を、多分あの当時は私だけでなく、急に学徒として出陣する羽目になった連中はみんなそうだったんじゃないかと思いますが、この戦は聖戦だ。だからこういう正しい戦のために命を落とすことはやむを得ないんだ、というようなことを、無理矢理に自分に思い込ませていったんじゃないかという気がします。友だちの中にも片道のガソリンを入れて貰った飛行機の操縦桿の上に、『歎異抄』だとか、或いは自分の愛読書を載せて、読みはせんでしょうが、それを見詰めながら、打ち落とされていった連中がおるんですよ。それが一旦敗戦になりますと、すぐに、「これは間違った侵略戦争であった」ということになったわけですね。ほんの二、三年の間ですけれども、立て続けに自分の思い込みというのか、そういうものが崩れていった。それが私にとっての昭和十九年、二十年という時代だったんです。敗戦になって死なずに軍隊から戻って来まして、そして復員服着た連中がクラスでまた顔を会わせたんですけれども、授業にならんのですね。生きて帰って来たから、この後何十年かまた生きることになるんだろうけど、「お互いに一晩でどんでん返しくってしまうような善悪しか知らないんだったら、一体何を基準にして生きたらいいのか。もう二度と善だと思っていたものが悪だったというようなどんでん返しを喰わないためには、我々はのんびり勉強することよりも、まず確かな善悪の基準を見付けなくちゃいけないんじゃないか」と、こういう論議が友だちの間で盛んにされたわけです。ですからあの当時のことを考えると、若い者は特にそうでしたが、すべての日本人が、心の支えというのか、生きる基準になるものを見失ってしまった時代じゃなかったかと思いますね。何となく自分では一つの人生観を持っているつもりで生きてきたものが、それが何の役にも立たなかった。そういう思いを噛み締めさせられた時代でしたね。その上に先ほど言いましたように、私個人としては、死ぬ筈がないと思っておった両親が死んでしまって、そして軍隊から帰って来ると、まず相続税というものを取られました。財産税というのがあの時取られました。財閥を解体し、財閥というほどでなくても、少しは財産を持っている者から取り上げて、国民の貧富の差を少なくしようというような政策が採られたわけですね。親父は生前に私に、「土地というものは有り難いものだ。だから先祖伝来の田圃だけは売るなよ。火事に遭っても焼けない。水が出ても流れない。泥棒が来ても担いで逃げられない。だから土地ほど信頼できるものはない」と言うてくれて、何となくそのつもりでおったものが、農地解放で一挙に無くなったんですね。息子可愛さに入っておってくれた生命保険が下りてきましたけれども、これが現金封鎖というやつで使えなくなった。今の学生は、アルバイトのほうが本職みたいなのがたくさんおりますけれども、当時の学生で、アルバイトというのはほとんどなかったんです。ですから自分で金を稼いだことのない奴が、両親に死なれますと、その両親が残してくれたものを出発点と考えますから、それがどんなに莫大であったと仮にしても、減っていく生活というのは堪らんのですね。しかも一晩一晩、何円で買えたものが何十円になり、何十円の物が何百円になるという戦後のインフレの時代でしたから。ですから生きていくための倫理的規範がぶち壊れて終い、その上に信じていたものが片っ端から崩れて終い、経済的にもどうしていいのか分からないというわけで、まあ本来ならば学校へ帰ったんですから、勉強に打ち込むべきところを打ち込めませんでした。毎日一体何をして今日一日を暮らしたのか考えてみても分からない。そういう生き方ですから、安眠もできません。朝起きると真っ暗な気分で、それがまたその日一日の生活を無為に過ごさせてしまうということの連続でした。今、思え返してみますと、まあ自殺をしておってもおかしくなかったし、ぐれてしまっておってもおかしくなかったと思うんですが、それが有り難いことにぐれもせず、自殺もせず、さんざん自分なりに行き詰まった挙げ句に、最後に飛び込んだところが禅寺だったというわけなんですね。昭和二十二年に高等学校を卒業しまして、ウロウロした挙げ句、静岡の臨済寺というお寺へ飛び込んだんですが、そこで私が初めて会うたお坊さんが妙心寺の管長になっておられます。当時まだ四十そこそこの若い方でありましたけれども、そこで坐禅の仕方を教えて貰って坐禅を始めたんですね。しかしやってみますと、これ片手間でいかんのですね。こんなことをいい加減にやっておってもどうしようもないわいとしみじみ思ったものですから、紹介してくれる人があって、京都へ出てきまして、そしてこの大珠院(だいしゅいん)に当時おられた後藤瑞巌(ずいがん)という、此処に書かれた墨跡が今掛けてありますけれども、この方が当時大徳寺(だいとくじ)の管長でした、七十歳で。その前は妙心寺の管長を歴任しておられたんですが、この方のところへ連れられて来て、「お側で修行して頂きたい」とお願いをしたんです。老師は、まずこう訊かれましたね。「お前、何故修行するんだ」と。世間一般では修行というたら無条件で、「結構なこと。それはいい心掛けだ」とこう言うてくれるんですが、老師の場合には、「何故修行するんだ」と、こうきたんです。それで、私は、グダグダと今ちょっと申しました過去の経歴をお話をしました。一時間位無駄に喋っておったんじゃないかと思います。それを黙って聞いておって下さって、私の話が終わった時、こう言われたんですね。「お前の話を今聞いておると、今のお前は何ものも信じられないというような心境のようだ。しかしな、修行というものは師匠を信ずることなしには成り立たんのだぞ。お前、この儂が信じれるか。信じれるのならば側にいたらいいが、信じられないのならば、側に居ても無駄だから、富山へ帰れ」と言われたんです。当時の私は捻くれていましたから、腹の中で、「この糞爺め!」と思ったものですわ。もう七十歳ですから。「大徳寺の管長だか、妙心寺の管長だか知らんけれども、世の中には社会的地位が高こうても碌(ろく)でもない奴はいっぱいおる。第一今出会ったばかりのこの爺を即座に信じることができるほど、ものを信ずるということが簡単にできるものならば、俺はトコトコ富山から京都くんだり出て来はせんわい」とこう思ったんですな。しかしそんなことを言ったら、「お前、帰れ」と言われるに決まっている。それでしょうがない。ここは一番嘘を付いてでも、と思いましてね、即座に「信じますから、どうぞお願い致します」と言うたんです。私は、この老師にお目にかかる時まで、自分の間違った思い込み、例えば親はいつまでも生きている。自分もいつまでも生きている。田圃はいつまでもある。戦争は正しいものじゃ。そういう思い込みが片っ端からぶち壊されましても、残念ながらその時までの私は、それが目のうろこが取れたり、耳の栓が取れたりすることにならなかったんですよ。ならないで、自分が不幸せだ。自分が可哀想だというふうな、そういう感じになっておったんですね。ですから先ほど私は修行というのは、「自分が馬鹿だと気が付くことだ」と言いました。そう気を付かせてくれるものは、いろいろな不幸であったり、苦労であったり、ちょっと苦(にが)いものだ、と申しましたが、この苦い薬を飲んでも気が付かん時もあるんですね。逆にその苦い薬を飲むことを、自分だけが可哀想な立場にいるというふうに、歪めて受け取っていってしまう。そういう時期があるんですね。ところがこの瑞巌老師にかかった時、初めてそういうふうでない自分の馬鹿さ加減を思い知らされたんですね。老師は、私が、「信じますからどうぞよろしく」と言いましたら、早速腰上げして、七十の爺さまが、「竹箒を持って庭掃きするから、お前、来い」と言われる。今は秋ですから落ち葉は自然なんですが、よく見てご覧になると、上手いこと植えてありましてね、春でも落ち葉が散るように木が植えてあるんですよ。私が来ましたのは春だったんですが、楠の病葉(わくらば)とか、カシの病葉(わくらば)がいっぱい落ちておる時期でして、掃きますと、瞬く間に落ち葉の山が出来るんですね。そこで、私は、「老師、このゴミ、何処へ捨てましょうか」と気を利かせて言ったんです。そうしたら叱られましてね。「ゴミは無い!」、こうきたんです。「ゴミがないといっても此処に」とこう山を指しましたら、「お前は俺のいうことを信じないのか」。此処で初めて気が付いたんですね。「信じる」というのは、文句が言えないということだったんです。それでしょうがない。「じゃ、どこへ捨てましょうか」と言ったら、「捨てるんじゃない!」とまた叱られる。もう言うことありませんから、黙って突っ立っておりましたら、「納屋へ行って、炭俵の空いたのを持って来い!」。持って来ますと、落ち葉を全部そこへ入れて、最後の一片まで入れて、足でこう踏み込んで、「納屋へ持って行って置け! 風呂を焚く柴(しば)じゃ」と。で、私、それを担ぎながら、文句が言えないということになりますと、腹の中で文句を言うんですな。「これは確かに柴だったが、まだ残っておるのはゴミだぞ」と、まあ抵抗しておったですね。戻って来ましたら、今度しゃがみ込んで、老師は小石を拾うてござる。「これを雨落ちの穴の開いておるところへ行って並べろ!」と言われた。並べれば穴も塞がりますし、景色にもなります―今は樋を綺麗に付けましたので、その必要はなくなりましたが―それを並べたけれども、まだ少し苔の折れたような土塊(つちくれ)みたいなものがある。あれはゴミだぞと思って頑張っておりましたら、それを全部掌の上に載せて、地面をすかして見て、凹(へこ)んでおるところへ持っていって置いて足でトントンと踏まれたら何も無くなったんですね。そしてこう言われたんです。「どうだい。分かったか。物にも人にも本来ゴミがないと分かったか」。感銘を受けました。感銘を受けましたが、やはり馬鹿者はなかなか心底のところが分からんのですね。今から考えてみますと、老師は多分「ものを信じられなくなっている私が、一番信じられないのが私自身なんだ」ということを見ておられたんだと思うんです。だから、「自分自身をゴミのように思っておるかもしらんけれども、実はそれはゴミではないんだ。希望を持ってやれ」と、こういう励ましの気持があったと思うんですね。よく分かりませんでした。さらにこの言葉は、お釈迦様が悟りを開かれました時に、「何と驚いたことか、自分はこの世を苦しみに満ちた世の中だと思っておったのに、すべての存在はみんな救われた存在であった」と、「如来の智慧徳相を具有す」というふうに言うておられるんですが、それと同じことを老師は、口の説法でなしに、庭掃除ということで示して下さっておったんですね。そして何よりも、「お前は儂を信じることが出来るかと、儂は言うたけれども、本当はお前はお前自身をまず信じないかんのだ」ということを言われたんだろうと思います。でもそんなことはその時まったく気が付かなかったんですね。気が付かんどころじゃない、それから始まった禅寺の生活では、まったく老師はこっちをゴミ扱いなんですな。朝、粥を頂きますが、その後で老師の部屋へ行ってこういうお茶を私が点(た)てる。先輩が二、三、側におって一緒に茶礼(されい)と言ってお茶を頂くんですが、その時その日の老師のご日程を承るんです。言ってみればミーティングのようなものですね。その時老師は他の人には話をされるんですが、私には絶対に声を掛けて下さらない。先輩が可哀想がって私の方へ話を向けますと、「ダメだ! ダメだ! 其奴はまだ人前でものを言う資格はない!」こう言われるんですね。しかもいろんな時に罵倒される言葉が、「小馬鹿たれ」と言うんですよ。馬鹿でもやっぱり「大馬鹿」と言われるほうが何かスッキリしませんか(笑い)。それが「小馬鹿」の上に「たれ」が付いているから汚(きたな)らしくてしょうがない。「この小馬鹿たれめが!」「この小馬鹿たれめが!」。だから腹の中で、「口先では、物にも人にも元来ゴミはない≠ニ言うておきながら、まったく人をゴミ扱いじゃないか」と腹の中で思いましてね、心の底から信じます、というわけにはなかなかいかなかったんですね。ところがある日の朝の茶礼で、お婆さんが一人いました。お茶の水の女高師(女子高等師範学校)を卒業して教鞭をとっておった人ですが、四十歳の時に老師に帰依(きえ)して、そして学校を辞めて、それからはもうつっぱりともんぺだけで、もう紅、白粉(おしろい)一切なし。ひつめ髪で生涯を終わった人です。非常に真剣に老師に仕えた人ですね。しかし普通の弟子とは違いますから、割合に気軽に老師にものが言える。突然、何がきっかけだったか私は忘れたんですが、こういうようなことを老師に訊き出したんですね。「老師様、洪川(こうせん)老師と宗演(そうえん)老師とはどちらが偉かったですか?」。洪川老師というのは今北洪川(いまきたこうせん)(1816-1892)と言いまして―鈴木大拙(だいせつ)居士(こじ)(学生時代、円覚寺の今北洪川に師事、釈宗演に参禅。大拙の道号を受けた:1870-1966)なども本を書いておられますが、この方について―幕末から明治にかけて、禅界だけでなく、仏教界全体を代表するほどの偉大な禅僧でした。鎌倉の円覚寺(えんがくじ)の管長をなさった方です。そのお弟子―法を受け継いだお弟子が釋宗演(しゃくそうえん)(1859-1919)という方でして、年輩の方々は知っておる方が多いんですが、やはり鎌倉の円覚寺の管長で、日本で初めてアメリカへ禅の布教をなさった方でもあるんです。有名な夏目漱石が、鎌倉の円覚寺で修行しました時に就いた老師がその宗演老師ですね。その経験を『門』という小説に書いております。このお二人を比較して、「どちらが偉かったですか?」と、そのお婆さんが訊いたんですね。そうしたら老師は即座に、「お師匠さんの洪川さんが偉い」と言われた。そうしたらそのお婆さん、「じゃ、宗演老師と宗活(そうかつ)老師はどちらが偉かったですか?」。この宗活という方も宗演老師の法を継がれたお弟子でして、本来ならば円覚寺の管長になるべき立場のところを、生涯寺には住職せん、ということで、東京の谷中(やなか)に「両忘庵(りょうぼあん)」という庵を結んで、そこで一般在家(ざいけ)の人たちを教育された方です。日本の女性解放運動の創始者でありました平塚雷鳥とか、或いは神近市子(かみちかいちこ)とか、こういう方々が宗活老師の元で坐禅の修行してみえます。この二人を比較しました時、瑞巌老師はまた「お師匠さんの宗演老師が偉い」と言われたんですね。そうしたらそのお婆さんが、「あらあら、老師様、困るじゃありませんか。次々にお師匠さんのほうが偉いんだったら末細りになって困ります」と。「じゃ、宗活老師とそのお弟子の瑞巌老師さまとはどっちが偉いですか?」と言ったら、老師は、「儂のほうが偉い」と言われたんですね。末細りになると言ったものだから。滅多に冗談を言わん老師が、そういうふうに答えられたものですから、お婆さん、すっかり嬉しくなりましてね、「じゃ、老師さまとそのお弟子の雪窓(せっそう)さんはどちらが偉いですか」と訊いたんです。雪窓(せっそう)という方はその当時、まだお寺に住職もせず、修行は既に済んでおって、瑞巌老師の法を受け継いでおられたんでしょうが、表には出ておられん。雲水姿で余所のお寺の掃除をしておられた時代でした。一方は両方の管長を歴任した禅界の最高峰の位置にある人―まあ私のような馬鹿は社会的地位でしか人の値打ちがその頃見えませんから、月とスッポン、比較にならんのですね。それでその比較を可笑しく笑いかけたんです。そうしたら瑞巌老師が考えようともしないで、即座に、「それはまだ分からんよ」とこう言われたんです。私はほんとにちょっと泣きそうになりました。「小馬鹿たれ! 小馬鹿たれ」と朝から晩まで言いながら、「其奴はまだ人前でもの言う資格はないんだ」と言いながら、この老師は、弟子の未来をいつも見ておられる。そう感じたからなんですね。果たせるかな雪窓(せっそう)老師(1901-1966)はのちに大徳寺の管長になられまして、六十四歳、大変若かったんですが、亡くなられる時には、その境地は非常に高いものがあったと思います。私は、瑞巌老師の命令で後で、その老師のほうへ行って、そこの道場で修行させて貰って、その雪窓老師の法を継いでおるんですけれども、あの時の瑞巌老師の、「それはまだ分からんよ」と言われた言葉、それを雪窓老師は実際の上で実現して見せて下さったと思いますね。まあそういうようなことがあって、漸く心の底から師匠に対して信じるという気持が起こってきたんですね。この「信じる」という文字は、「まかせる」とも読みますでしょう。よく「信じます。信じます」と言いながら、いざとなるとちっともまかせないというのが普通ですけれども、ほんとに信じたらやはりその人の命令は甘んじて受ける。まかせるという心が湧いてくるんですね。そしてそこに初めて必死になって工夫をするという気持が出てくるんですよ。瑞巌老師が一番最初に、「信ずることなしに修行は成り立たない」と言われたんですが、もし文句をいうことを許されたら、誰も工夫なんてしませんね。第一、「無理だ」と感じたり、それも「無茶だ」と思ったりするのは、自分の現在の能力において無理であったり無茶だったりするんですから。だからそう感じた瞬間に「無理だ」ということができたら、現在の自分の能力以上のことをやろうとはしませんわね。師匠に任せて自分にはとてもできないと思うことでも、命ぜられたら、嫌とは言わずに、必死に工夫をする。そこに初めて自分の脱皮が可能になってくるということを、その時しみじみ感じました。私、大相撲を見る度に思うんですが、あの大きな身体の二百キロを超すような連中がドタバタ思いっ切り相撲を取れるのは、あれは土俵が壊れないという前提があるからなんです。もし薄氷の上に円を描いてですね、「此処で相撲を取れ」と言ったら、千代の富士でも四つん這いになって、這うのが精一杯じゃないかと思うんです。此処にもまた瑞巌老師が、「師を信ずることなしに修行は成り立たない」と言われた意味があったと気が付きました。まあともあれそういうことで、側に置いて貰って、飯炊き、雑巾がけ、庭掃除、お経の読み方、頭の下げ方、いろいろやらせて貰ったんですが、私、今この寺へは、若い者、外国人も日本人も、外から一般の在家の人たちが来るんですけど、見ておりますと、ワンタッチでできるものが多くなっておりますから、風呂など焚(た)かせてもまともに火が焚けません。それ見る度に、自分のかつての姿を思い出すんですね。雑巾がけするというと、女中さんの雑巾がけの姿しか見たことなかったんですから、絞った雑巾を持って膝ついて、手をついて、こうやって拭くわけですね。自分よりもずーっと年下の小僧さんから、「あんた、何をしておるんだ。雑巾がけというのはこうやってやるんです」と尻を立てて、ヒューッと走るのを見てですね、ほんとに目から鱗が落ちるような気がしました。理屈はその相手よりはずーっと捏ねるけれども、雑巾がけ一つ、私は小さな小僧に及ばんのだな、ということを如実に知らされたんですから、やっぱり思いを固めて禅寺へ入ったんですから、修行しようという気はありましたよ。しかし何をどのようにどこへ力を入れて修行したらいいのかが分からんのですね。一班に分かれてしていると、「私、やります」と言って、箒を取りに行く。人が雑巾がけしていると、「私、やります」と雑巾取りに行く。そして怒られました、その度に。「人のばかり取りにくるな!」と言って。若い時というのは、やる気がないんじゃなくて、やる気があればあるほど、一生懸命しようと思えば思うほど、どこに力を入れて、何をしていいのかが分からないんですね。それが分かった頃にはもう修行が済みかける頃なんです。まあそういう調子でほんとにろくでなしでしたな。何の役にも立たん人間でした。それが飯も少しはまともに炊けるようになり、掃除も少しはまともに掃けるようになった頃に、師匠から、「道場へ行け」と言われたんです。「こうやって儂の側で小人数で、一対一の修行も結構じゃが、人には衆生縁(しゅじょうえん)というものが大切だ」とその時言われました。今の言葉に直すと、「社会性」ということだと思います。「人は一人では生きられない。一人では働けない。だから多くの人たちと縁を結ぶ修行をして来い。そのために道場へ行って、似たような連中と一緒に芋の子を洗うようにして修行して来い」と言われたんです。道場へ行きますには、文庫と言いまして、まあ世間にも手文庫というのがありますね。ああいう立派なものではなくて、厚紙に漆を塗って固めて、スポンとやろう蓋をかぶせる。その中に袈裟(けさ)を入れますので、「袈裟文庫」と言うんですが、その裏側に、下着だとか、或いは飯を食う時のお椀、箸、頭を刷る時のカミソリ、或いは砥石。そういうものを括り付けまして、更には雨合羽とか、褌の替えとかいうようなものも後ろに付けまして―まあランドセルのようなものですな。それを前後ろに二本の紐で縛って、こういうふうに担ぐ。そういう袈裟文庫というものを担いで道場へ行くんです。言ってみれば、自分の身の回りの一切の必要物を、カタツムリみたいに全部担いで行くんですね。師匠の命令でその支度をしようと思っておりましたら、瑞巌老師が来られまして、「おい、その紐を締める前に、文庫の蓋を持って来い」と言われた。身のほうなら分かるけど、蓋のほうに何の要があるのかと思って、それを持って行きましたら、「よこせ」と言って、黙って、その蓋の裏側に千円札を三枚貼って下さったんです。まだあの当時は千円札が今の一万円札よりずっと値打ちのあった時代ですよ。「これ、何か分かるか」「いいえ、分かりません」「これをな、涅槃金(ねはんきん)と言うんだ」。お釈迦様がお亡くなりになった日を、「お涅槃の日」と申しますでしょう。「お前、これからな、覚悟を決めて道場へ行くんだが、修行半ばで野垂れ死にをしおった時、他人(ひと)様に迷惑を掛けるわけにいかんから、これは死骸の始末料じゃ」と、こう言われたんです。冗談を言わん非常に謹厳な人でしたから、それが真剣になって言われたんですから身震いしました。もっとも私はその時に、肉体の死のほうを考えなかったんですね。かつて軍隊へ入る時には、肉体の死のことばかり考えました。しかしその時にはその死というものを肉体ではなくて、「自分の馬鹿で固まった我(が)という奴、これをものの見事に叩き殺して生き直って来い。生まれ変わって来い」ということなんだと感じたんです。「よーし、やったるぞ!」「よーし、ものの見事に死んでやろう!」と、その時思いました。身震いするような思いで帰って来て荷造りしまして、そしていよいよ出発の日、まだ寝ておられるところへ挨拶に行ったんです。「これから道場へやって頂きます」「うん」。小僧ですから玄関から出るわけにいきません。台所の土間から下へ下りて、草鞋を履こうとしておりましたら、トコトコ足音がして、老師が出て来られたんですね。わざわざ起きて弟子を見送られるなんぞとは思っていませんから、恐縮しておりましたら、土間へ下りられましてね、私の足下にうずくまって、そして草鞋の紐を私の足に結ぼうとされる。あまりに驚いたものですから、「結構です。自分でやれます」とこう言いますと、「え、寄こせ!」と私の痩臑(やせずね)を引っ張られましてね、そして草鞋の緒を結び付けて、その結び目をトンと叩いて、「滅多なことで、この緒(お)を解(と)くなよ」とこう言われたんです。勿論道場へ着いたら、上に上がる時には草鞋は脱がんならんのですが、「お前、これから決意をして修行に行くんだが、その発心(ほっしん)した心の緒を滅多に解くなよ」と言われたんだと感じました。もうほとんどその時には、泣かんばかりというか、涙が出ておりましたよ。感激して、緊張して、一生懸命になって、そして頭を下げて、網代笠を持って道場へ行ったんです。此処から大徳寺まで歩いて行けますから。大徳寺の専門道場へ入りまして、で、玄関のところで、笠を置いて、あの上がり壇のところにこういう格好をしましてね。そして予め書いてきた履歴、それから中へ入れて貰いたいという願書、入ったら命懸けで修行しますという誓約書、そういうものを封筒に一通にしまして出して、そして案内を請うわけですが、広い道場の土間で、「こんにちわ、こんにちわ」というような挨拶はできません。昔から決まりがありまして、大きな声で、「た〜の〜み〜ま〜しょ〜う」。若い時ですからね、もっと大きな声ですわ。精かぎり、根かぎりの声出して、こういう案内を請うわけですね。何十人おっても道場は静かですから、奥深いところへ自分の声がずーっと沁みていくような感じがしました。暫く経って、「どぉ〜れ!」そういう声が聞こえて、取り次ぎが出て来るんですが、こう上目で見ますと、洗いざらしの紺木綿の雲水衣を着て、如何にも修行したようなのが出てくるわけですね。そして上がり壇のところまで下りて来て手をついて、「はい!」。その声に応じてこちらが、「私は何々県何々町何々寺住職誰々の徒弟、何の何某でございます。今回当道場に掛塔(かとう)致したくお願いにでました。よろしくお取り次ぎ下さい!」。こう口上を述べるわけです。「暫くお控え下さい!」と言って入ります。入って、取り締まりの雲水に掛塔願書を見せるんですが、これはあくまでも見るだけ、必ず断られることになっておるんですね。「只今、当道場は満員だから」という言い方であったり、或いは、「この道場は非常に質素に暮らしておって養のうてあげることができない」という言葉であったり、私の場合には、非常にまあ変わったことをいうてくれました。私、今、七十キロほどあるんですが、あまり太っていませんでしょう。これが道場へ行きました時には、四十八キロだったんです。私、四十歳まで五十キロになったことがないんです。ですからもう骨に皮がまぶれついておるというような姿ですよ。取り次ぎが、「お見掛けするところ、まことに蒲柳(ほりゅう)の質のように思われる。当道場の修行は厳しいからとても勤まらんだろう。どうか余所へ行ってくれ!」と言って、断られました。で、引き返して終いますから、今度は人の出入りに邪魔にならん横っちょへ行って、願書を前に置いて、こういう姿勢で、草鞋を履いたままですから、腰掛けて身体を捻ってこういうふうにした形ですね。こういう形で上げてくれるまで待つわけです。二、三時間しましたかね、別のが、警策(けいさく)という棒を持って出て来ましてね、「先ほどお断り致しましたにも関わりませず、そのような醜い姿を玄関先に曝しておって貰っては当道場まことに迷惑でございます。早々にお引き取り下さい!」と言いました。そう言われても、これは帰るわけにいかんのです。日本には四十近くこういう道場がありますけれども、どこへ行ってもすぐには入れてくれません。これは何故かと言いますと、禅宗の一番最初のお方、達磨(だるま)大師のところへ、中国の慧可(えか)というお坊さんが弟子入りをしました時には、何日も何日も門前に佇(たたず)んで、そして十二月の九日の夜に至って、雪が降り出して、明くる朝には膝を没するまでに雪がつもったのに、達磨さんは振り返ってくれない。そして雪に埋もれている姿を見て、初めて振り向いて下さった。その時に慧可に初めて声を掛けて貰った嬉しさに泣きながら、「どうぞ、仏法の真髄をお示し願いたい」と頼むんですが、それでも達磨さんは、「諸仏が伝えられた真実というものは堪え難きを堪え忍び難きを忍んで初めて垣間見ることのできるものであって、すぐにのぼせ上がってしまうような傲慢な心や軽薄な心でこれを求めることはできないんだ」と言っておられるんですね。この「堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶ」という達磨さんのお言葉が終戦の時の詔勅(しょうちょく)に取り入れられております。で、慧可は自分が決して軽率なつもりでやるんじゃないんだということを示すために、自分の左手の臂を切って、それを差し出して入門を許されております。それを千何百年の今日も伝統として受け継いで、道場でやるわけですから、予めそのことは知っておりました。だからこれはやむを得ん一つの手続きだと初めは思っておったんです。ところが荒っぽいんですな。「貴様、出て行かんのか!」と言うて、四十八キロ位ですから、簡単にこう襟首を持って突き出せるわけですよ。山門の外まで叩き出されました。そして叩き出したのが居なくなると、またコソコソと戻って来て、これをやる。夜になると上に上げてくれました。布団も与えられました。食事も貰いました。しかし明くる朝はまたすぐ叩き出される。ともかく一日朝早くからやっておりますと、私が行きましたのは、三月一日でしたが、特に寒い冬で、もう腰まで冷え上がってしまう。捻れていますから、腰はとても痛い。俯いておりますと、顔が鬱血してですね、弱い歯はみんな浮いてしまうんですね。そのうえに犬か猫のように扱われる。これは一つの手続きじゃと観念しておったのが、だんだん腹が立ち、夕方頃には悲しくなりました。そして自分の心の中に、「クソ! 親はおらんでも、俺だって故郷(くに)へ帰れば親戚・知人、いろいろおるんだ。大学は出なかったけれども、一応旧制高等学校は卒業してきておるんだ。こんな犬・猫みたいな目に遭わされて」という思いがフッと出てくるんですね。その思いが自分の中に出てきたということに気が付いた時、ビックリしましたよ、自分の馬鹿さ加減に。だってその日の朝なんですよ。老師に草鞋の緒を結んで貰って、その緒を叩いて貰って、「滅多にこの緒を解くなよ」と言われて、涙流して感激して奮い立って出て来たのは、その日の朝なんですよ。その前には千円札貼り付けて貰って、「死骸の始末料だ」と言われて、身震いして、「よーし、死んでやるぞ!」と思ったんですよね。それがものの半日も経たんうちに、夕方になって、何でこんな目に遭わんならんのかというような思いがフッと出てくるんですね。「意志の力」とか、或いは「自分を大切にしたい」「自分の考えを大切にしたい」と若い時はよく言うんですけれども、自分が如何に弱いものなのか。自分の意志なんてものが、如何に頼りにならんものか、痛感させられました。鍛に鍛えてきた人の意志は別でしょうが、ろくでなしの儂の意志なんぞは、半日で叩き壊されておったんですね。で、三日間そうやって玄関先におります間に、他のことにも気が付きました。こうやって道場へやってくる者は、生まれも違う、学歴も違う、能力も違う、経験も違う。そういう千差万別の連中が、「よう来た、よう来た」といって、上に上げて貰って、「これが私のやり方です。これが私の考え方です」なんて言ったら、修行にならないんですね。自分の知識や経験の固まりを、お腹の中、頭の中にいっぱい入れてですね、ちょうど言ってみれば、この茶碗の中にいっぱいお茶が既に入っているような状態で、「さあ道場の玉露を注(つ)いでくれ」と言っても、これは無理だ。玄関先でこうやって這い蹲って、何故自分が、何をするために此処に来ておるのかを、嫌というほど考えさせるのは、「決意を新たにさせるためだけではなく、自分の中にあるものを、一度玄関先で全部捨てさせて、空っぽになって入れ」ということなんだな、ということにも、少し気が付きました。三日経って、夕方、「一昨日来、高雑言、暴行を加えましたにもかかわりませず、そうやってお出でのところを見ると、少しは願心(がんしん)がおありと思われますので、本日より上へ上がって頂きます。但し正式に入門を許可したわけではございませんから、ご油断のございませんように!」こう言って上げて貰いました。上げて貰った部屋が三方開けっ放しで、一方が壁です。その壁に向かって荷物を置いて、それは老師のご都合もあったんでしょうが、それから五日間、飯も食わせて貰うし、或いは雑巾がけ、ちょっと身体を動かすことも致しますし、夜は寝床の中で寝ましたけれど、しかしまたそこで繰り返し繰り返し、何故自分が此処におるのか、を思ったんです。ですから、私はその時に、本当の勇気というのは、若い時には得てして人を攻撃する形で勇気を発揮しようとするんですが、本当の勇気というのは、こんなにも当てにならん弱い自分の意志を、失敗してはまた立て直し、思い違いしてはまた立て直していくこと、それ以外にないなと思いました。まあそうやって、それから後、大徳寺の専門道場で十五年間お世話になったんですけれど、後になって白隠禅師という日本禅宗の中興の祖と言われる方ですが、この方が、「大信根、大疑団、大憤死、この三つの心が鼎の足のように揃うておらなければ、何事も成就せん」と言われておられるのを知りました。大信根ということは信ずることです。大疑団というのは、大きな疑いの塊ですけれども、これは信ずることと矛盾することではなくて、問題意識を持って工夫するということです。そして大憤死というのは、真の勇気です。私は、禅寺へ入門させて貰おうて、これをお説法で解説して貰ったんではなく、瑞巌老師から信ずること、工夫すること、そして道場への入門で、真の勇気というものを、こういうものを体験的に気づかせて貰ったんです。いや、そのことが分かったと言うんじゃないです。それを自分が持ち合わせていなかった馬鹿さ加減に気が付いたと言ったらいいでしょうか。ですから私、今日は大分迷惑なんですよ。カメラ向けられて、そして話を録音されて、言うたことは何かと言うたら、自分の阿呆だった話ばっかりでしょう。大変閉口しておるんです。
 
有本:  一時間、本当にお話に魅入るように聞かせて頂きました。
 
盛永:  いやいや、恥じ話を長々とやりましたが、どうぞ悪しからず。
 
有本:  有り難うございました。
 
 
     これは、昭和六十一年十二月二十八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものを、平成十六年五月二日に
     再放送されたものである